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社長ブログ2015.08.16

瞑想修行

ちょうど10年前に京都で参加した瞑想修行があった。

今回はご縁をいただき10年前に新設された千葉での施設で修行に参加をした。

この瞑想修行は実質11日間、朝4時から夜9時まで決められた規律の元で、ただひたすら瞑想に励む修行である。
外部との接触は一切断ち、敷地からも一切出入りが禁止される。
また、参加者同士のコミニケーションもあらゆる方法が禁止される。
言葉を交わすのは勿論のこと、ジェスチャー、筆記、視線を合わせることを禁じられる。

また、携帯やスマホ、筆記用具、本の持ち込みも一切出来ない。
そして、酒やタバコ類は一切禁止である。

極限に自分との内側に向き合うことに徹する。
1人で修行に集中するような仕組みになっている。

インドから生まれた「ヴィパッサナー瞑想」である。

今回の参加者は男女合わせて50名ほどだったが、外国人が1割ほどいらした。
アメリカ、ヨーロッパ、インド、中国から来ていた。

今回の日程は8/5の夕方に現地に入り8/16午前中で終了した。

結論から言うと、とても精神的、肉体的に苦痛が伴う260時間の沈黙だった。
一番の苦痛は、自由が一切ないことだ。

日課もきちんと定まっていて、食事は朝6:30と昼11:00の2回だけで、基本的には玄米と味噌汁で、たまに温野菜や切り干し大根などが食べらる。
私は1日1食主義なので全く問題ないが、普通の人は慣れるまで時間を要するだろう。

私にとっての1番の苦痛は就寝の時間だった。
20数名が一つの空間に雑魚寝をする。
私の両隣の1人はイビキのうるさいインド人で、おまけに鼻炎かなにかでとてつもなくデカイ唸り声をあげ、もう一方の僧侶は神経質で細かく、ちょこまかちょこまか荷物の整理を夜中にやったり、朝2時から起きて色々やっているので、おちおち寝てられないのだ。
文句を言ってやろうにもコミニケーションの手段がないので、咳払いをして暗にしらせるも我が道を行く僧侶には効き目なし。
おまけに向かいの奴は、歯ぎしりが凄い音をたてている。
酒も飲んでれば寝つくかも知れないが、こんな調子で消灯時間が21:30だからたまったものではない。

1日目の夜から何でこんなところに来てしまったんだろうと、後悔するも後の祭りである。

2日目の昼間に空を見上げながら想いにふけていた。
突然に外部との連絡が閉ざされ自由が効かなくなる時間を過ごさなければならないなんて、まるで北朝鮮に拉致された気持ちになってしまう。

敷地内の活動は限られる。
5日目位にあまりの運動不足にシャドウーボクシングを端の方でやっていた。
すると、数時間後に指導者からお呼びがかった。

何かと思って行ってみると、あのような運動は控えるようにとたしなめられてしまった。
まるで子供の世界である。
行儀の悪い子供が先生から叱られているのと何ら変わらない世界である。

郷に入れば郷に従えと言うことで自らを治めた。

それほど、落ち着き払い自分の内側と向き合う事に集中するのである。

朝4時から座り始め休憩時間を何回か挟むも、夜9時まで殆ど座っている時間だから、内側と向き合いたくなくても、3日目を過ぎれば自ずと落ち着いてくる。

私は2回目なので、多少要領を得ているが、今回は改めて深い掴みをもたらしてくれた。
一日中瞑想をしているのは、自らの身体の感覚を観察しているのだ。
今この瞬間に生きる修行である。

私たちは日常において、無意識で刺激に反応して生きている。
それは、過去の記憶からの反応であり今の事ではない。
だとすると、刺激にただ反応するのではなくて、その時の身体の感覚を平静な心で観察することで、いたずらに怒りや恐れ、悲しみなどの感情に左右されなくなる。

言うは易しで、ここまでに達するには時間を要するが、ただ無意識に過ごしている人生よりも遥かに尊いことのように思う。

修行は現実現場で実践してこそ価値あるものである。

私も毎日の瞑想で、平静さを保った生き方を目指します。

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