社長ブログカテゴリー記事の一覧です
ニューヨークハンバーガー
ニューヨークハンバーガーの本丸が日本に上陸した。
私はハンバーガーに全く興味もないし、普段はほとんど食することはないが、近年の食の安全から少々高くとも品質で評価される時代になり、どの程度の影響があるのか実際に現場を見たいこともあり、またモスバーガーなどに比べて何が違うのか、実際に食べてみて店の雰囲気にも興味があって訪れてみた。
「SHAKE SHACK」シェイクシャックが外苑前にオープンした。
タレントのローラがニューヨークで話題にしたのはよく知られている。
店舗の立地は決して良い場所ではなかった。
原宿や渋谷に比べると出店条件はBランクと言っていいだろう。
イチョウ並木通りにあり、人通りの少ない場所ではあるが休日ともあって行列が出来ていた。
待つこと40分ようやくカウンターで注文した。
こんなに待つなんて滅多にないことだか、この日は不思議と自然体で待つことが出来た。
オープンキッチンでは16名のスタッフが所狭しと動いていた。
ハンバーガーを焼く担当、ポテトを揚げたり飲み物やアイスを担当する者、レジスタッフ、ホール担当とオープン時とは言え人数が多い印象だった。
注文をするカウンターから見渡せるようになっている。
注文をする際に初めて気づいたが、メニューにコーヒーがなく代わりにビールがあった。
完全にスターバックスとの棲み分けを意識した戦略で、ビールを注文する人達も目立っていた。ポテトをつまみにビールはありだと思った。
全体を見渡すと20歳代が多く女性の方が目立っていた。
価格帯がマクドナルドなどに比べると高いので10代が少なく、アルコールを扱っているのでターゲットは20歳から30歳前半のような印象をもった。
そして、巧みなブランディングがスターバックスのような雰囲気を醸し出していた。
コーポレートグッズが店内で販売されているのと、ロゴも冴えている。
この辺りはさすがだと思わせるものを感じた。
私が注文するとタイマーを渡されて席を確保するために移動したが、店内がいっぱいでまたもや順番待ちになった。
実際に注文を受けてからハンバーガーを焼いたりポテトを揚げたりするので、どうしても回転が少し遅くなる構造になってしまう。
席の確保も順番待ち、ハンバーガーもタイマー待ちで、まだかまだかと思って待つこと15分ブザーが鳴り再びカウンターへ向かった。
オリジナルハンバーガーが680円、燻製のものが880円だったので、私はオリジナルハンバーガーを注文した。
食してみたが感動はなかった。
行列を並んで食べるほどではないし、また訪れたいとは思わなかった。
しかし、興味を引いたのがブランディングだった。
ニューヨークではブランディングに成功しているようだが、日本でスターバックスのように圧倒的な支持を得られるか今後注目したい。
最近のファーストフード店は注文を受けてから調理に入るのがブームになってきているようだが、その分待ち時間が長くなり今回も並び始めて食するまでに費やした待ち時間が約1時間を要した。
10年前は安くて早くて美味いを売りに成長したが、これからは食の安全による品質が1番重要な時代になっている。
コストをかけても品質を求めるようになっているし、最近は突然体調が悪くなって病院に行く若者も増えているようだ。
当社の社員もお昼はコンビニ、夜もコンビニ、朝は抜いている連中も多いと聞いている。
是非、玄米と具沢山の味噌汁を食す習慣にしてもらいたい。
やかんとうんこ
ビジネスの友人でもあるFから「参謀」なる組織を紹介された。
ここは、経営者が集まりそれぞれが参謀として相互関係が成り立つコンセプトである。
なので、組織で何か活動するのではなく、組織内で経営者同士が生の体験を通じて感化しあい、具体的な案件の参謀役として機能する仕組みになっている。
この参謀を代表するA氏がFの中学生の同級生であり、Fが参謀に初めて参加した際に感銘を受け、1番に私を思い出してくれたらしい。
私も昨年からメンバー入りし、参謀の会合に参加するようになった。
6日に会合があり3回目の参加になったが、この日は参謀メンバー企業のI氏が自身の生の体験を話す機会があった。
I氏はIT関連企業の経営者であるが、その出で立ちに驚愕した。
それは、まるでおとぎ話に出てくる虹から現れた妖精のようであった。
普段はもっと派手だと言う。
その彼の話に「やかんとうんこ」があった。
私は彼の出で立ちから感化されていたが、この話を聞いて益々共感したと同時に私の中にあるボタンを押されたようだった。
まずはやかんの話しだが、商談に向かう際に鞄の代わりにやかんを持って行く時があるそうだ。
やかんとはお湯を沸かす時に使うやつだ。
一瞬驚いたが、発想の転換である。
やかんを鞄に置き換える発想は、おそらく世界中探しても彼をおいて1人としていないのではないか。
そして、商談の際にテーブルにやかんをおいて何も尋ねてこなかったら、仕事を引き受けないそうである。
何も言わない人などいるのだろうかと思ったが、それがしっかりいるそうである。
あまりに突然、目の前に現れたやかんに言葉を失い、問いかけてはならないと自動的にシャトアウトする輩が存在するというのだ。
確かにそんな人物と仕事はしたくないだろう。
実にシンプルな構造である。
そのためにやかんを持参しているわけではないにしても、物を見る観点や発想は広がり、日常がいかに限定された世界、既成概念に囚われた世界でさまよって仕事や生活をしているかが、このやかんによって完全に突破されてしまった。
あとは、うんこの話だが、これはシンプルで「入ったものが出てくる」発想で自分に入ってくる情報、五感で体験するもので日常的ではない体験をいかにチャレンジしているか。
この体験を通じて、うんことしての発想が出てくることはまったく共感する。
I氏は何も芸術の知識は無いが、パリやロンドンに頻繁に出向き、パリではタキシードに自身で描いたデザインを塗って街を歩いたそうだが、その際にたくさんの人々が振り返り話しかけてきたそうで、中には有名ブランド数社の方からもオファーが入ったそうである。
ポイントは自分で限界を決めない生き方、結果はともかくプロセスが日常のパターンになっている行動をガラッと変えるシーンを取り入れることは非常に有意義なこと、それがうんことして出てくる発想がやかんだったりしたら自分世界が楽しく広がるだろう。
会合の後に毎回懇親会がある。
居酒屋で酒を酌み交わしながら親交を深める計らいだ。
I氏と隣の席になる機会があり私自身や家族の話をしていた。
彼は感性の高い人物で大胆さが目立っているが、非常に繊細な性質を兼ね備えた印象をもった。
今度一緒に仕事をし、志を成し遂げようと話をして楽しい時間を共に過ごした。
年末年始
年末にマニラ入りをした。
約1年ぶりの再会となった息子は更にたくましくなっていた。
その落ち着き払った様子はかつてのやんちゃな面影は微塵もなかった。
15歳で単身マニラ入りした彼は17歳になった。
日本人を対象にした英会話スクールでインターンとして働いている。
月給は3万円、日本からの仕送りは一切ないが、普通に暮らす分には充分とは言えないが、フィリピンの平均月給なみに稼いでいる。
約2年間の体験が彼をそこまでにしたのだろう。
まったく文化の違う異国の地で当初はホームシックになるのは勿論、孤独感や生活習慣の違いに戸惑ったことだろう。
同じ高校生活を送っている日本の同年代にはない雰囲気を纏っている。
今回は私の両親も連れてきた。
次男の姿を見て涙ぐんでいたのが印象的だった。
次男のリクエストもあり、正月はマニラから島へ向かった。
国内線で約1時間半のフライトでパラワン島に到着した。
そこは、日差しが強く真夏の陽気だった。
人気のリゾートエリアとして欧米人が至る所で目立っていた。
彼を通訳係として観察してみたが、流暢な英語で会話する様子を見ると日常生活のレベルはマスターしているようだ。
しかし、ビジネス用語や交渉を促してみたが、そこの領域までは到達していなかった。
宿泊したホテルでは、大晦日のカウントダウンイベントが盛大に行われた。
ビーチ沿いに設けられたパーティー会場は熱気に包まれ、ステージではダンサーやバンドが演奏する音楽でNew Yearを迎えた。
残念ながら私はカウントダウンをする事もなく酔っ払って寝てしまった。
19時に始まったパーティーはあと5時間0分0秒の大きな電子標識に記されていて、もうそろそろと思いきやまだ残りが2時間50分、ちょうど21時を回った時間で、とてもこの感じでカウントダウンを迎えそうにないと確信した私は思い切り粘ってみたが、23時前には姿を消していた。
普段の習慣が10:30-3:30の平均睡眠タームの私にとっては、もはやカウントダウンはどうでもよくなっていた。
新年をこの島で迎えた私達は、最後にマカティへ向かった。
東京のような都市化が進むエリアで、New Yearを迎えた市民達が賑わっていた。
おしなべて言うとフィリピンは若くエネルギーに溢れた国だ。
マニラ、パラワン、マカティと見て回ったが、何処も若者でいっぱいだった。
おまけに場の雰囲気がエネルギーで満ち溢れている。
それはまるで日本の昭和時代、私が生まれた頃の勢いに近いのではないだろうか。
これから始まる時代にワクワクする感じを肌で感じた。
次男をマカティに残し日本へ帰国した。
今日から新入生をスクールまでアテンドする仕事があるという。
彼は1年後LAに入る。
分水嶺
親友Mからお金を貸して欲しいとメールがあった。
何度となくそれに応えてきたが、今回はキッパリと断った。
本人は気づいてないが、まだまだ余裕がある中で自分に対して甘えが抜け切れていないのが見て取れる。
今この瞬間に生きていたら、既に動いているはずなのだがそれがなかなか出来ないでいる。
彼の後輩達は必死に仕事と向き合っている。
ある者は、早朝から蕎麦屋で働き日中は別の仕事をこなしながら一生懸命やっている。
また別の人物は、1年間全く休まず朝から晩まで息継ぎなしの面かぶりクロールの仕事ぶり。
何れにしても今の瞬間に生きている。
人に依存することなく、フットワークよく自分自身に責任をとっている。
残念ながらMはそれが欠落しているのだ。
来年から新たな道が開けるかの正念場に立っている。
ここをまたぐと彼は本当に難しくなるだろう。
来年が分水嶺になる。
それはまるで私の近しい人達が同じような境遇と重なっているかのようだ。
家族では、長男を家から出して自立を促した。
次男は片道切符でフィリピンへ送った。
彼らも来年は自らの知恵と行動で未来が決まる分水嶺と言える。
更に当社の社員でも何名か分水嶺にいて、来年は自分自身との戦いによって未来が左右されてしまうだろう。
その後Mから電話があり、私のメールに胸を打たれたと電話があった。
私の心境は次男を片道切符でフィリピンへ送り込んだ時と同じようだと表現した。
するとMは俺は長男だねと笑いながら語っていた。
私の信念は自分に厳しく、他人にはもっと厳しく接することだ。
勿論、メリハリはあるのは当然だが、ここで甘えを許容しては駄目だと思った時は非情にも厳しく接するようにしている。
人生は晩年なり。
これはMの叔父さんの名言で私も彼からよく聞かされていた。
人生の第4コーナーを回ったところにいる我々は、既に晩年の域に入ろうとしている。
命をかけて取り組める仕事があることに感謝したい。
Mもこれまでのツケを清算して新たなスタート地点に立ってもらいたいと願っている。
それには最後の砦を乗り越える必要がある。
おそらく来年がラストチャンスだろう。
私も色々な意味で今年は学びがあった。
人任せにしていた天然村事業は、現場に出る事で未来の予兆を感じ取れた。
最初のうちは孤独感で不安を感じたりしたが、それを察知してから次々に必要な人との出会いや情報が集まるようになった。
来年も全力で取り組み軌道に乗せたい。
そう言う意味では、私自身も来年が分水嶺になるだろう。
様々な人達にとって迎える来年の分水嶺。
課題は人それぞれだが、ここを乗り越える事で明るい未来が待っている。
来年の今頃は皆んなで笑って酒を酌み交わしたいものだ。
厳しさを超えたところに真の喜びがあると信じている。
共感
この場所にこんな宝があったとは。
地域の資源でこれだと思うものに出会った瞬間だった。
どこまで登るかと思いながらついて行くと溜池のようなものがあった。
休耕田になっている棚田が広がっている。
溜池のあるてっぺんから眺める景色は里山の魅力をすべて表してくれている。
これほど近くにこんな素敵な場所があるなんて想像もしなかった。
ここは天然村に隣接する場所で、日本棚田百選に入る大山千枚田が直ぐ近くにある。
この地域は里山で土地の形状が平らな面が少ない。
そのため、水田は棚田になっていて土壌が粘土質になっている。
山から染み出すミネラル豊富な水と粘土質が稲には抜群な栄養素となるのだ。
地域を代表するK氏に棚田が休耕田になっている現状を案内された。
それと同時に伝統ある棚田農法の説明を受け感銘を受けた。
そして、こんな素晴らしい地域の特性が残っている棚田が存在することに価値を見出した。
K氏曰く、この付近の棚田でも近年は枯れてしまい、下の川からポンプで汲みあげるのが一般的になっている。
一方で、ここの棚田は伝統ある農法で山から染み出す天水を溜池に貯められる。
そこをせき止める事で、ゆっくりと天水を下へ流せる事が可能になる。
この地域の里山では極めて稀少なポテンシャルを持つ棚田である事がわかった。
この溜池こそ由緒ある伝統を受け継ぐ「鯉の池」だった。
名前の由来は里山の住人は海辺の村と違い魚が豊富でないので、動物性タンパク質を補う為に鯉の養殖をしていたそうだ。
正に、我々が現在取り組んでいるアクアポニックスの原点になっている。
この棚田の再活性が地域のテーマであり、休耕田を伝統農法による天水棚田へ復興する事が大義となる。
これこそが私の共感を生み出した。
天然村で寄り合いが行われた。
地区代表S氏と地域代表K氏に来ていただき、これから始まるプロジェクトが話し合われた。
私は2人を前に力説した。
この休耕田を見事復活させようと。
それには地域の組織の協力なくして成し遂げることは出来ない。
それぞれの役割分担が必要で、天然村は都市部の人達を呼び込むオペレーションを、地区の組織は実際に休耕田の原状回復を、地域の組織は都市部の人達に田植えや稲刈りを指導してもらうと同時に稲作についてのレクチャーを担当する。
この役割分担により伝統ある天水棚田が復興し、美しい景観を取り戻すことが出来る。
そして、かつて収穫されたという幻の米が作れると言う。
K氏によれば、昔見た豊かで大粒な米は飴色をしていて、食べるとそれはそれは濃厚で甘味を含んだ素晴らしい米だったと言う。
それが復元出来る取り組みなら是非ともやりましょうと賛同してくれた。
S氏もK氏も笑顔で協力していただく事になった。
まさにこの共感が三者の絆となってプロジェクトが成立したのだ。
来年から始まる天水棚田オーナー制度は、1人5800円〜のプランから用意している。
小学生以下は無料とし、5月の連休から始まる田植えと9月の稲刈りを体験し、自分が作った幻の米を手にする事が出来る。
地域の景観が良くなり、地元に雇用が生まれ、そして都市部の人々が共同作業で成し遂げる達成感を共有する。
皆さん、是非この機会をお見逃しなく!
娘の受験
先月から高校の学校説明会に出かけている。
中学2年生の期間は不登校だった娘も3年になってから復帰して通学するようになった。
しかし、受験生には1年間のブランクは様々なハンデとなっている。
欠席日数の上限を設けている学校も多くあり、説明会が終わった後の個別相談では、現実の厳しさを思い知らされている。
色々回った感じで、私の戦略は固まっていた。
私立高校の単願に絞る。そして、選択した科目に時間を集中して勉強する。
確率論から導いた結果である。
だか、これは高校に進学するマストな戦略であり、まったく違う世界の選択もありだと確信している。
予め決められたカリュクラムにより、金太郎飴の如く同じような教育がベストだとは思っていないからだ。
現実に次男は15歳から単身フィリピンへ行き、英会話スクールのインターンで働き学んでいる。
英会話は勿論のことだが、それよりもまったく違う世界での体験こそが、これからの彼の人生にどんなにプラスになるか計り知れないものがあるからで、日本で普通に何気なく高校生活を送っている同年代とは圧倒的な差になっていることだろう。
彼は3年間が終了したらアメリカの大学に進学する計画をしている。
まぁ、これをそのまま娘が同じような道に行くかと言えば、次男とは性格が間逆なためにないだろうが、個人的にはぜんぜんありだと思っている。
無難な道が一番嫌いだからだ。
多数の行く道とは違う選択をしてもらいたいと願っているので、娘の受験もまったく同じように考えていたが、本人は至って普通の道に進みたく高校に行きたい気持ちが強い。
そのため私の戦略が確率論からベストだと思い込んでいた。
本人はお姉ちゃんと同じ県立高校を第一志望校にあげている。
しかし、私的には内申書の影響が大きい県立高校は外した方が良いとしていた。
話し合った結果、本人の希望が強く県立高校の学校説明会へ出向くことになった。
すると、不登校枠という制度があることをを知った。
それは、不登校生の履歴を持つ生徒を対象にしたものだった。
これを知る事で戦略が大きく変わることになる。
しかし、なぜ中学校ではその説明がなかったのか、それが腑に落ちなかった。
なぜなら、知っているのと知らないのとでは戦略が大きく変わってくるからだ。
手続きをするには、願書を出す時に不登校の事実を証明する書類を提出すれば、この不登校枠が使えるのだ。
それは、中学校の校長より不登校を証明する書類を受理する必要がある。
私はこれで娘の第一志望校はほぼ間違いなくいけると踏んだ。
そして、最悪のケースを想定した。
万一、学校側が出さなかった場合に備えるため、弁護士に予め確認すると同時に教育委員会にも連絡する必要を感じていた。
それは、私の腑に落ちない要因からの発想だった。
教育委員会に電話で確認をした。
不登校枠があるのを中学校側が予め説明しないのはおかしいのではないかと。
すると、電話を対応してくれた年配の男性は非常に丁寧に答えてくれた。
彼は教育者の道が長く最後は校長を経て今に至ったという。
私の怒りのこもった言葉を包み込み、最後は私の思い違いだった。
不登校枠とは内申書を大目に見る制度で、あくまで欠席日数を考慮するもの。
成績まで優遇する制度ではないこと。
学校側はそれを知っているため、あえて不登校枠に触れないまでも、成績を合格ラインにすることの重要性を説いてるだけであると。
いかに胆略的な発想から生まれた行動であるかを恥じた。
そこにはある偏った考えがある事に行き着く。
末っ子ということもあり、溺愛するあまり大事なことが抜け落ちていた事だろう。
彼女の事になると短略的な発想になり、本人の為にならない行動がしばしばあった。
今回の場面もそれが如実に出てしまった。
受験の本戦まであと2ヶ月、これからは本人の努力により道が開けるだろう。
それまでは見守るしかない。
男女の縁
新卒5年目に入る社員Sが退職した。
送別会で隣にいる彼に聞いてみた。
転職先が決まらないうちに辞めるのは、よっぽどうちの会社がやだったのか?
すると彼はひとつのけじめをつけるためです、と答えた。
中途半端な気持ちで身を入れずに仕事を続ける事が、自分自身に対して誠実さに欠けることになるのだろう。
彼には付き合っている女性がいて双方ともに結婚を意識しているという。
転職を機に大宮から二子玉川へ住居を移した。
同棲している彼女の勤務先を考慮してのようだ。
家賃は2DKで10万円、2人の共同生活に彼の仕事は大きな要因になる。
気になったので、2人の想いはどっちの割合が高くどの程度なのか聞いてみた。
すると彼は圧倒的に向こうが私を想っていますね、具体的に数値は出せませんが私が想っているよりは明らかに彼女の方が私を想う気持ちが高いことは確かですと答えた。
私は素直に受け止めた。
ところで結婚は決まったのかと聞くと、来年の4月には結婚するとのこと。
どこで式を挙げるのか聞いてみると、式を挙げるのではなく入籍する時期だと言う。
先方のご両親にも会っていると言っていたが、あえて入籍する時期を定める必要はないのではないかと気にかかったが、あえて最後の日なのでツッコミは避けた。
その話を同期のAに話すと、絶対に結婚できませんね、ときっぱりと言い放った。
私の話を聞いての意見ではなかったようだ。
2人は同じ大学の同学部出身で当社に新卒で同期入社するという、稀に見る縁の間柄なのだ。
私が気になった要因を聞く事なくAの絶対的な確信に基づいた発言は納得させるだけの力強い言葉だった。
Aは入社当時に彼女がいたがすでに別れ、彼女いない歴3年近くになると聞いている。
女性目線からは2人を比べた場合、圧倒的にAの方に軍配が上がるのは明確になっている。
一方でSは入社以前から彼女がいなくて、今の彼女と付き合うまで7年近くかかっていると聞いた。
そんな経緯から最初は彼のジェラシーからくるものと思ったりもしたが、私の思い過ごしのようだった。
そうなると、想いの割合も全く当てにならず、2人の付き合いすらも持続可能があるとは言えないことになる。
そんなおせっかいな気持ちを抱きながら、AとSの同期2人を思い浮かべていた。
1人は女性で経理総務部で活躍する人材に育っている。
彼女は昨年に社内結婚している。
もう1人の男性Hは2年前に退職したが、これも社内恋愛の末、今年結婚している。
Hとは今年の夏に会って飲んでいるが、マイペースで自分らしいライフスタイルを貫いていた。
お相手の女性社員Yも24歳と若いが、処世術に長けた持って生まれた才能を発揮して活躍している。
このように男女の縁は決まっているかのようだ。
しかも性格は全く逆だったりする。
互いの足りない部分を補うようになっているようだ。
Sもしっかりと止めを刺して、Aの絶対的な確信をぶち壊してもらいたい。
地産地消
百姓というのはどこからきた言葉か知っていますか?
私が師と仰ぐ方がおっしゃるので、よくわかりませんと答えた。
それは、古来農業を生業とする者は100種類の農産物を収穫していたことから、百姓と呼ばれるようになったとのこと。
もちろん、一度にたくさんの品種を生産するのではなく、四季を通してその時節に合った野菜なりを収穫する。
それは、自給自足から始まり豊富に取れた時にはご近所にお配りしていた。
地産地消と言われるまでもなく、それがごく当たり前の時代だった頃の話である。
今のように大量に生産して各地に運ばれるようになってからは、出来るだけ品種を絞り大規模な農場で生産されるようになった。
出来るだけたくさんの野菜を作るには、農薬は欠かせないばかりか、都市部に運ばれる仕組みになっているので、コストもかかるし鮮度も落ちる。
そして、それが更に大規模化しているのが企業の農業参入である。
大量生産、大量販売の仕組みによるもので、都市部に運ばれた大量の野菜たちが売り場に並んでいる。
最近、ある大手スーパーでジャガイモを買った。
天然村のキッチンで私がちょっとした料理を振る舞うため、天然村の手作りのジャガイモと比べてみたら、包丁の入り具合がまったく違っていた。
スーパーのものが硬いのに比べて天然村のものは柔らかな感触だった。
そして、大量に生産したものはどこか無機質な印象を受ける。
天然村で百姓の意味を教えていただいて依頼、次に必要とされる事が地産地消にあるのか思考を巡らせていた。
逆視点からの発想だと確かに地産地消になる。
特定少数あるいは、特定多数の消費者へ向けた農業の在り方が、古来からの百姓という由来に重なると思った。
ここから発想したサービスを天然村から発信する。
アクアポニックスの商用システムを来年の4月から稼働させ、生産から消費までの一気通貫としての仕組みを作り上げる。
詳細はまだ言えないが、確実に新しい価値を創造出来ると思う。
天然村×アクアポニックス×地域
この取り組みに心踊り、ワクワクしている。
全国の地方から日本を元気にする。
ヴィジョンを具体的にアクションするステージに入った。
電車ライフ
最近は電車ライフを送っている。
以前から電車はよく利用していたが、免許停止となった今では唯一の移動手段となっている。
そして、最近は特異な場所として感じている。
密閉空間に色んな人が集まる場所であり、色々なドラマが繰り広げられている。
それは、まるでギスギスした社会の縮図のような空間である。
それを物語る体験を幾つか上げてみた。
朝のラッシュ時の銀座線に乗った時である。
混雑しているにもかかわらず、リュックを下ろさずにいる中年の男がいた。
当然に空間が狭くなるので、私は常識がない人だと思いつつも模様眺めをしていた。
すると、どんどん圧力がかかってきて金具のようなものが脇腹に当たって痛いのだ。
何とかこの場面を振り切ろうと思ったが、八方ふさがりで身動きが取れない、おまけに前の男に向かって金具が当たって痛いと叫ぼうにも声が出ない。
恥ずかしいやら、何と言っていいのやらで、痛みを伴いながら少し考えてみたが、言ったところで身動きが取れない状況では意味がない。自ら少しづつ体制をずらしながら回避する方が賢明だと思った。
山の手線では、女の子がどこにも掴まらずにスマホをいじっていた。
すると揺れでダダッーと後退してきて私の足の甲を踏みつけたのだ。
痛みはそれほどでもなかったが、誤りもせずにいる態度に腹が立った。
あとは、電車から降りようとすると、私を押しのけて我先にと空いている席めがけて突っ込んでくるおばさんには怒りよりも呆然と立ち尽くしてしまう。
まぁ、こんな具合に自分の事しか考えない人達や、無神経な輩がいっぱいでストレスを感じずにいられない空間だ。
また、ホームを行き交う人達は能面ビー玉のような表情で歩き、朝のジョギングで行き交う人達のプラス波動に比べると対極のマイナス波動を放っている。
だが、この空間と今後は共に過ごさなくてはならない。
上手に付き合うためにも、何か手立てはないものか。
一方で、利便性に焦点を当てると京浜東北線や山の手線、東京メトロは全てピーク時2分間隔で動く優れもの。
特に都心の地下鉄網は世界一を誇っている。
会社から自宅まで傘が不要だったりする。
しかし、最近は電車が止まる傾向が目立つ。
故障や事故が起きるとお手上げである。
ある日の朝だった。
大幅なダイヤの乱れでホームへの入場制限があり、構内は人でごった返していた。
これはもう無理だと思った私はタクシー乗り場へと向かった。
すると行列が出来ているので仕方なく並びながら考えていた。
このまま並んで時を待つか、バスも人でいっぱいだし、電車も当分動きそうにない。
あとは、タクシーを待つか歩くしかない。
タクシーもなかなか来ない。
歩く選択もありかと、ふと思った時である。
並んでいた人達が行き先をシェアしていた。
意外と目的地は一緒だった。
ターミナル駅に行くと選択肢が広がるので、見知らぬ人同士だか目的地が一緒ならば、並んで待っている時間が節約になるばかりか料金も割り勘で4分の1になる。
この結束力に関心した。
まるで311の災害時のように見知らぬ人同士が結束している姿を垣間見る気がした。
私も自然とそのコミニティに入っていた。
電車も止まる事の多くなってきた時代には、こんな光景は増えたのかも知れない。
何か場慣れした人達が集まっていたかのようである。
まだまだ続く電車ライフをどのように過ごしていくか。
本や新聞も読めるし、メールをチェック出来るし返信したり、企画を考えたりする有効な時間として効率的な面もあり、車では決して出来ない大変有意義な時間を過ごせる。
混雑時には、リュックを背負った人には近付かない、どこにも掴まらずにスマホをしている女の子は避けて、降りる時には突っ込んでくるおばさんをいなせばいい。
様々な体験を通じて対処法を進化させて行きたい。
行政処分
品川から京急で鮫洲駅で降りた。
鮫洲試験場へ電車できたのは今回が初めてだった。
6月28日にオービスに映ってから約130日後にして免許証を渡して行政処分を受ける事になった。
90日以上の処分者を対象に公聴会という場を設けて、対象者20名ほどが一つの部屋で皆んなの前で処分に至った経緯と内容を確認し、意義があれば申し立て出来るというプロセスが法律で定めているらしい。
部屋に入り周りを見渡すと全員男性で20歳から70歳くらいまでが20名ほど集まっていた。
ここにいる全員が90日以上の免許停止処分を受ける連中という事になる。
私は12点がオービス、路上で2点の計14点だと認識していた。
他の連中は何点でどんな違反をしてここに来たか聞ける機会なので、退屈せずに過ごせるので安心した。
私は2番目に呼ばれ前に出て質問官とやり取りが始まった。
あなたは何でスピードをこんなに出したのですか?と聞いてきた。
私は今さらそんなことを聞かれても困りますという心持ちだったが、わざと困惑した表情を浮かべながらも、朝早くて車が空いていたのでつい速度を出したようです、と答えた。
すると先方は、速度制限は何キロだと認識してましたか?
私は100キロだと思っていました、オービスが光ったのは見えましたか?私は見えませんでした、とこんな具合にもう既に警察に何度も答えた質問内容だったので、淡々と無表情で答えた。
最後に何か意見や質問はありますか、と聞かれたのだが、今さら何を意見しようと事態が好転するわけもない事くらい知っているので、早く終わって帰りたいと思っていた私は何もありませんと答えて終了し、3分位の問答だった。
その後の問答を聞いていて印象的だったのが、若手はもう二度といたしません、申し訳ありませんでした、といった表面上は極めて反省した態度で臨んでいたのに対して、年配の方になると、こんな事になるとは思わなかった、見えなかった、私は悪くないから点数を軽くしてくれと正当化する傾向があった。
だからと言って、若手は二度としませんなどと言っているが、私はまたすると確信している。
もうしませんと言い張るほど、またやってしまうだろう。
そんな事は言わなくてもいいからだ。
一方で、年配の輩は往生際が悪いかと言えばそんな事はなく、潔くないだけで正当化して自分は悪くない、警官が悪いと他人原因論になっているだけだろう。
中には数ヶ月の間に何回も捕まる運の悪い人もいた。
しかし、全体の7割近くは私と同じで前歴はなく、一発のスピード違反で赤切符になっていた。
前歴があると90日を超えて免許取消処分になるからだ。
そして、この点数の仕組みが凄く複雑になっているのだ。
今回初めて知った事がある。
私の場合、14点なのでこの後1年間で1点を超えると免許取消になると思っていた。
しかし、よくよく聞いてみると違うのだ。
過去3年間行政処分の前歴がない場合、振り出しに戻り0からのスタートになる。
債権債務の相殺で一からやり直しが出来るようになるのだ。
しかし、3点を超えると90日の免許停止、9点を超えると免許取消になるように行政処分までの期間が短縮される。
つまり、行政処分の130日までの間に携帯電話違反一つで免許取消になっていた状況から、9点の持ち点を得た事になるのだ。おまけに1年間違反がなければチャラになる。
15点満点の降り出しからのスタートになる。
本当に運が良かったと思っている。
そして、行政処分の期間短縮となる制度があって、講習を丸2日間受講して試験に合格すると停止期間が半分の45日になる。
私は丸2日間も時間をかけたくないし、波動の悪い人々に囲まれて長時間過ごすくらいなら運転しない方がまだマシである。
短縮講習はやらずに2月7日までおとなしくしている選択をした。
今回は免許取消寸前、相撲で例えるならカド番大関が千秋楽7勝7敗で迎えた場面、徳俵に足がかかった状態から、うっちゃりで勝ち越した感じだ。
今回も本当にツイていた。運が強い。
天にありがとう。
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